清原 久和先生
ドイツの学会にて, 1984
<勤務医通信 第6回 2026/7>
ある勤務医の歴史
市立豊中病院名誉総長
清原久和
6年前に心筋梗塞で心停止を経験し終活を考えるようになった。司法書士を訪ね遺言書を作成してもらい身の回りの整理を少しずつ始めることになる。
今回、日本臨床泌尿器科医会勤務医部会長である久保田洋子先生(寒河江市民病院事業管理者)から依頼があり勝手ながら終活の一環として勤務医通信の欄に投稿させて頂くことになった。
医師として大した業績もなく診療現場では何度も大変な場面に遭遇したこともあったがそれはさておき、3つの病院でまあまあ勤めあげた勤務医生活だったと思う。主に海外出張での楽しい思い出がすぐに頭に浮かび紙面が増えたことをご容赦頂きたい。一人の勤務医の一生として流し読み頂ければ幸いである。
小生の生い立ち
1947年3月13日大阪市天王寺区で出生、 奇しくも その2年前の同日大阪大空襲があり父母の実家である医院が共に全焼、 6年間 中国の北支で 軍医として従軍していた父は帰国後大変であったと思う。 医院継承の道は難しく生活の安定した勤務医として働くことになったと聞いている。 そのおかげで小生は公立ではなく、6年間一貫教育の私学である大阪星光学院に入学することができた。父母には感謝している。大阪星光学院は創立10年目で国公立大学進学率は高くなかったが、数人の素晴らしい恩師とめぐり逢うことになる。海軍兵学校、陸軍士官学校、海軍機関学校卒の年配の先生、着任後間もない教育熱心な若手の先生方のおかげで小学校の体育評価が3であった小生が体力向上、北アルプス縦走、剣岳登山もすることができ、学力についても阪大に現役合格することができた。
大学入学後教養学部の2年間は、法学部に在籍していた高校の先輩に誘われ弁論部に入部した 。キャンパスの裏山にて旧制大阪高等学校寮歌で発声練習、部室では先輩達がやかん酒を湯吞みで飲みながら天下国家のことを論じ合っていた。関西の弁論部の雄である関西大学、近畿大学にお邪魔したこともある。 国会議員の先生方のお宅をお訪ねし弁論大会の寄付金を集めに回ったことも貴重な経験であった 。教養学部では学業は疎かにし、それ以外で教養を積んでいたが、何とか医学部に進学できた。
医学部学生時代の特記する思い出は学業ではなく、5年生の夏休みに約40日同級生の K 君(後年大阪市保健所長)と西ドイツのハイデルベルグ大学 に語学留学をした事である。1ヶ月 8000円で下宿屋に滞在できたが、この時の日本での家庭教師の給料が週2回で1ヶ月1万円であったことを思うと格安であった。大家さんは第一次世界大戦にご主人を、第二次世界大戦で息子さんを亡くされたという気の毒な方で、我々を孫のように迎えてくれた。大学の研修には後年在阪大学のドイツ語教授になったT君、東京芸大院生のNさんも参加していた。熱のこもったドイツ人女性教師の研修、 ハイデルベルク城内や教会でのコンサート 、城から見下ろせるネッカー川に浮かぶ 中之島にボートで渡り北欧、東欧、アラブの学生達と明け方まで 飲みながら東西対立について議論したこと、 居酒屋で労働者のおじさんから日本と一緒にもう一度 戦おうと言われたこと 、大学までの通学路にあるカプリ というイタリア系の名前の喫茶店で 旭日旗のデザインのあるアイスクリームが「日本の夢」という名前で売られていたこと、週末に ユーレイルパスを使ってフィレンツェ 、ローマ、ウィーン 、スイスのユンクフラウ、 アイガー山麓のツェルマットを訪ねたことなどは 全て懐かしい思い出である。卒業試験もなんとかクリアして卒業、6月に発表のあった国家試験にも合格し、いよいよ医師としての第一歩を踏み出すこととなった。
研修医時代
初期研修は独自に制度を設けている医療機関もあったが、臨床研修制度がない時代であり通常は出身大学で行われた。初期研修の半年間はまず循環器外科小児外科を選択したが、手術の釣引き、入院診療の下働きで終始した。休日も出勤し、休みは殆どなかったと記憶している。唯一の休暇は医局で手配された半年間に3回、1週間で往復する沖縄航路の船医の仕事であった。沖縄航路は本土復帰前の外国航路であり、主な仕事は検疫業務であった。台風で左右最大振幅 75度の揺れも経験したが、沖縄についてからはゆっくり過ごせた。船のパーサーに通常出入りできない米軍の将校クラブにも連れて行って頂き、 ショウを見ながら1ドル360円時代のジョニーウォーカー赤シングルを1ドルで飲ませてもらった。 ちなみに当時日本国内の洋酒喫茶では一杯800円であった。
半年間の外科研修終了後、 泌尿器科で研修することになった 。医局会での最初の挨拶で 『泌尿器科は下水処理の診療科であると、下水処理機能は文明のバロメーターであり泌尿器科を選択した』と話したところ、先生方から苦笑された。
泌尿器科での半年間は居心地がよく人間的な生活ができた。この間もちろん無給であったが、週1回の当直医のバイトと実家からの通勤で何とか生活できた。
話が変わるが 1年前、芳根京子さん主演の『まどか26歳、研修医やってます』というテレビ番組の中で、まどかさんが外科と内科的な仕事両方ができる診療科ということで泌尿器科を選択する場面があった。振り返れば小生の診療科選択もまさにその辺にあったと思う。泌尿器科に進むことを選択し、さらに1年大学病院泌尿器科で研修することになる。
大阪府立成人病センター 時代
2年の臨床研修の後 大阪府立成人病センター( 現大阪国際がんセンター)に移ることになった 。26歳で公務員に正規採用されたことは退職後支払われた年金額に貢献したことになる。 当初はTURでの日本の草分けの一人である伊藤秦二部長のもとで研修し、直属の上司には森義則先生(後年兵庫医大臨床教授)がおられた。伊藤先生が開業され、森先生も兵庫医大に移られてからは、阪大講師の古武敏彦先生が部長として着任された。古武先生は厚生労働省の膀胱がんの班会議の班長として仕事をされ、国立がんセンターの垣添忠生先生(後年国立がんセンター総長)、奈良医大の岡島英五郎教授, 平尾佳彦先生(後年奈良医大教授), 金沢大学の内藤克輔先生(後年山口大教授)の先生方と知遇を得ることができた。当時の成人病センターの上司は中村隆幸先生、宇佐見 道之先生 下には三木恒治先生(後年京都府立医大教授)、 黒田昌男先生 、吉田光良先生が在籍し和気あいあいと仕事をすることができた。
初めての海外での発表は 西ドイツのカールスルーエで行われた国際泌尿器科内視鏡学会であった。演題は「表在性膀胱がん200例のTURによる治療成績」であったと記憶している。日本から約10人が参加し 団長は当時 浜松医大阿曽佳郎教授(後年東大教授、日泌理事長)、マイトマイシンカプセルで著名であった 秋田大学の 加藤哲郎助教授(後年秋田大学教授)、帝京大学の和久正良教授などが参加されていた。小規模の学会であったが 現在のロボット手術につながる 内視鏡手術の夜明けであったと思う。 学会終了後 阿曽先生は当時 まだ 珍しかった 尿管鏡の治療手技をスイスの大学まで 見学に行かれたと記憶している。小生はその後1週間お休みを頂き、ロマンチック街道からノイシュヴァンシュタイン城、ミュンヘン、レーゲンスブルク、当時共産圏との国境にありハンスカロッサの愛したパッサウを訪れた。ニュルンベルグでは加藤先生に紹介して頂いた留学中で大阪出身の根本良介先生のご自宅で久しぶりの和食をごちそうになり、その後東北大学桑原正明助教授他の先生方に合流、大きいワイン樽の中で深夜まで飲み、居酒屋の2階で寝た。その後フランクフルトから23時間かけて南回りで帰国した。
成人病センターでは研究も可能で隣の大阪府立公衆衛生研究所で三木先生と前立腺細胞培養を試みたが 、繊維芽細胞ばかり出てきて失敗に終わり途中で断念した 。その後、成人病センター研究所との兼務となり学位取得のための実験も可能となった。15年在職、学位が取れた後に大学の医局より転職の話があった。
AUAにて
退職直前に2週間お休みを頂き、三木先生の精巣腫瘍についてのAUA発表に同行することになった。ニューヨークでエンパイアーステートビル、自由の女神、5番街散策、キャッツ観劇で2日ほど 観光し、学会場のボストンへ移動した。リスが走り回っているハーバード大学の構内を散策、学会に参加した。精巣腫瘍の治療でご高名のインディアナ大学ドナヒュー 先生にご挨拶し、インディアナ大学を見学に行くことが可能となった。大学では手術見学、カンファレンスに参加させて頂き、夜は教授に御馳走になり院生のご自宅に泊めていただいた。1988年6月末で成人病センターを退職した。
健保連大阪中央病院時代
関東大震災の後に建築された古い病院であったが、大阪梅田曽根崎という地の利を得てY新聞 、Yテレビ、Kテレビの関係者、裁判所、弁護士事務所など 司法関係の人達が出入りし、なかなか 華やかな雰囲気であった。初めての部長職でスタッフは下に2人で、8年間で4人の医師が交代で着任した。その内の一人は前回この欄に寄稿している大阪の箕面市民病院高田剛主任部長である。阪大病院関連の男性不妊診療を担う役割をしていたので 奥山明彦先生(後年阪大教授、日泌理事長)、並木幹夫先生(後年金沢大教授)が非常勤として勤務されていた。従って手術も男性不妊症関連の手術中心にして、一般的な手術、がんの手術をしていた 。その当時まだ 珍しかったインディアナパウチの手術、MVACなどのがん化学療法も行った。在職中AUAのcorresponding memberとしてサンフランシスコ、サンアントニオ、アトランタ、ニューオリンズ、オーランド、サンディエゴの学会に参加、ワシントン近郊のNIH、ボルチモアのJohn's Hopkins大学の訪問の機会も得た、帰国途中で数回、同門の後輩が留学していたハワイ大学にも立ち寄った。市立豊中病院部長の退職により医局より転任依頼があった。後任の部長は以前寄稿している女性泌尿器科医の竹山政美先生である。
市立豊中病院 時代
豊中市は大阪北部にある人口40万人の市で伊丹空港ビルは市内であり、市立豊中病院は大阪大学豊中キャンパスに隣接する。着任時の全病床数は612床であった。
8年前 釜山に学会で行った時 、海雲台の海辺で年寄りの占い師に48歳の時に転機が来ますよと教えられた。実にこの年に 豊中病院に移ったことが転機になったように思う。1995年 阪神大震災の3ヶ月後に 市立豊中病院に部長として赴任した。
病院の周辺にはまだブルーシートをかけられた家が点在しており 、震災時には病院の廊下に怪我人や亡くなった方が寝かされていた、という話を聞いて兵庫県に隣接する豊中市の被災状況が大阪府下でも大変であったことを痛感した。スタッフは小生を含め相変わらず3人であったので診療と手術で忙しい毎日を過ごし、昼食はほとんど午後3時頃であった。診療内容は市民病院の性格上多岐にわたり、 今までの病院ではあまり見かけなかった 乳幼児小児の診療も行うこととなった。医師としての転機となったのは診療報酬支払基金の審査委員を依頼されたことであった。 当時の院長から病院の運営のためにも必要だということで承認も頂いた。その後 18年間審査委員を続けることになるが、 15年目に現日本臨床泌尿器科医会斉藤会長と同時に厚生労働大臣表彰を受けることになった 。その後院内では医務局長 副院長と職責を変え5つの委員会の委員長を拝命することになる。
最も活躍できたのは病院機能評価機構受審のための委員会の責任者として 病院の見直しができたことである。10年間で3回受審したが、多い時は約500 の審査項目に対して病院全部所の職員の代表者を集めその評価について検討を行い 、1年前から受審の準備をした。 都合 3回の機能評価を経験し病院の隅々まで見渡すことができた 。
外科系の手術症例が多く国指定のがん診療拠点病院の申請を事務方と協力して行い、大阪北部では阪大と当院が初めて承認された。その後地域医療支援病院としても認可され病院のブランド力が向上した。外来運営委員会、がん診療委員会、保険委員会、倫理委員会、地域医療連携室の責任者として職責を果たし総長職で定年退職した。その後非常勤職員として臨床検査部管理医師、緩和ケア医師などをして72歳まで在職した。
医会活動については大阪泌尿器科臨床医会に40歳ごろから参加、学術委員長 副会長 もさせて頂いた。日本臨床泌尿器科医会については、社保の審査員になった50歳頃から理事に任命され活動が始まったと記憶している。
あとがき
退職後は週1回の伊丹空港診療所勤務と関西エアーポートの非常勤産業医として 76歳まで仕事をし その後は大阪府医師会の指導委員会委員 日本臨床泌尿器科医会の役員、市立豊中病院名誉総長として時々 職責を果たしている。
一生病院勤務医で 職責を終えたわけであるが泌尿器科医だけではなく病院の管理業務、緩和ケア医、産業医 などが経験でき、それぞれの時代の中で性格の違う病院で、またそれぞれの立場で活躍できる場があったことは幸せであった。泌尿器科医の職責を全うすることも大切であるが、勤務医でこそできるその場での活躍の場を広げてみるのもありかなと思う。

